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屋上

「またここへ来てしまった」

S氏はそうつぶやくと、錆付いたパイプ椅子に腰を下ろした。

ここはとあるビルディングの屋上。さほど高層でもない、どこにでもありそうな場所だ。

彼は悩み事があるとこの場所に来る。いや厳密に言うと来てしまうのだ。

ここが、どこの何ていうビルディングなのかはまったく覚えていないしまた覚えていたとしても、きっと自分の意思ではたどり着けない所なんだと何となく感じていた。いづれにしてもここがどこであろうとどうでも良かった。

S氏は平凡なサラリーマン、上司からは叱られ部下からは突き上げられ御多聞にもれない中間管理職であった。

悩み事と言っても、大それたものではなく些細なことが多い。

自分の成果を上司に横取りされたり、データ収集や難交渉など人がやりたがらない仕事を押し付けられたり。だがS氏は仕事にそれ程不満があるわけではなかった。

彼にとって常にそれが自分の役回りであると思っていたからだ。

いつものように小一時間ここでぼんやりと夜景を眺め、ため息をひとつつくとそろそろ帰ろうかと腰を上げた。その時、「カチャリ」とドアのノブが回る音がした。

『誰か来る』

勝手に入り込んだ後ろめたさもありS氏は物陰に身を潜めた。

ここには明かりがなく、どんな風体なのか良く見えない。警備員なのか住人なのか…。

すると、

「誰かいますか?いますよね」

『しまった!見られてた!』

いきなり声を掛けられ、S氏は体が硬直し声も出ない。不法侵入という言葉が頭をよぎる。

「いることは判っています。何もしませんから、そのまま私の話を聞いてください」

『?』

「これからもあなたは何度もここに来ることになるでしょう。でも、決して会社を

辞めようなどとは思わないでください。」

誰とも判らぬ人影は勝手に話を続ける。

「今あなたがやっている仕事は、将来きっとあなたの出世の足がかりになります。どうか、この調子で仕事を続けてください。」

『何なんだこの人は、何で私の事を知っている?もしかして!』

もしかしたら未来の自分がタイムマシンで自分を励ましにやって来たのか?

S氏は、星新一でも思いつきそうにないベタな空想をしてしまった。

「では、これで失礼します。決してあきらめないでくださいね!」

最後にそう言い残すと誰とも判らぬ人影は去っていった。

S氏はしばらく放心状態になっていたが、やがて正気を取り戻した。

「いったい何だったんだ?」

そう言いつつ、なんだか笑いが込み上げてきた。

おかしな事にいつもより元気が出てきたような気がする。

自分の努力を認めてくれる人がいるのはうれしいものだ。

あの人影がどこの誰であれ、とても感謝したい気持ちになった。

それから何日かして、S氏は思いきってある行動に出た。

会社からの帰り道、適当なビルディングの屋上にのぼり、こう話しかけるのだ。

「誰かいますか?いますよね…」