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生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。

shikanneiko20170424

「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」

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(自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」「人間、ヒト」「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか?

(ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?)

個人集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。

グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。

又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか?

私、例が思い浮かびません…。

然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。

少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。

達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか?

(ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望\xA4

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このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。

さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。

これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。

元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。

受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。

わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。

多忙。

考えている暇など無し。

外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。

関心が起こらない。

別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。

或いは向けさせられている。

もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか?

どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。

(挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。

世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。

特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。

「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。

哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。

その他の例としては…。

寡黙、むっつりを決め込む。

そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。

「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。

言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。

等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。

そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。

その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。

例えば、

モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。

或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。

創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。

外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。

イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。

遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。

人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。

誰も話に耳を貸さない。

世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。

「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。

…等。

斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。

以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか?

かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。

しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか?

所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは?

やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか?

摩訶不思議でなりません…。

蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。

以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。

自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。

(尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。)

更にこうも言いたいです。

外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。

その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。

しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。

自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。

事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。

現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか?

諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。

尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。

(その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?)

只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。

紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。

但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。

科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。

外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。

これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。

哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。

哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。

例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。

つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。

ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。

そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは?

(例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。)

哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。

しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。

非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。

他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。

具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。

他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。

これだけでは真の哲学とは言えないのでは?

無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか?

あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。

これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。

そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。

知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。

こんなうまい商売は無いのでしょうか…。

自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは?

孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか?

(昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか?

無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか?

哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。

然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。

国際的情報化の進展により学際的活動もそれに伴って活発を見せていると思います。

盛んな議論の展開、意見交換も、IT化がなおも行き渡り続けている現代に於いて、より増して可能になってくる筈です。

取り分け哲学・倫理学の分野方面に於いては一体どうでしょうか?

哲学と科学の類似点は万人(万生物)に更に時代・空間をも超えて共有され得るという事でしょうか?

(尚私は科学も哲学も時間、時代、時系列、空間、場所を(一過性では非ずして)超越している点では類似性有りと思っています。)

共有されるべき「確からしさ」「認知・判断の手掛かり」の淵源として重要です。

「実証」された事、それが固定的なものなのか変動的なものなのかは、私悔やしくも残念ながらつまびらかには理解出来ません…。

多大なる勉強、練習熟達が必要かも知れませんね…。

ここで一応漠然雑然とではありますが、私の「哲学」というものに対する私見、一家言を以下↓に示しておきます…。

(斯界の権威、専門家には適うべくもない浅見でしょうが…。従いまして自信は全然御座いません…。これらは、雑然漠然曖昧模糊としたものであり「信念」という程くらいにまでには、完全な凝固凝結をみてはおりません…。未だ途上の思案に過ぎぬものです…。)

時空超越の哲学

不偏・普遍(・不変(←ある意味に於いては少し語弊及び誤解の発生があるかもしれません…))の哲学

最大公約数的な哲学

汎用性のある哲学

万人はおろか万生物に共有されるべき、哲学

人種、生物種の垣根、境界線を取り払った哲学

「フィロソフィー→知(智)を愛する。愛知。愛智。」にははなはだ疑問。懐疑的態度をとっております。「「自」と「他」からの、「主」と「客」からの、「私」と「公」からの、(公私、自他、主客、の各併存としての、)概念思考察の、行為・いとなみ・知」あたりが適当or妥当or穏当なのでは?

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